芸能界への無関心

芸能界のスキャンダルをなぜあれほど引きずるのか、それはそれだけ関心を持つから。いくら報道をしても視聴率がなければ触れることもない。芸能人はさらされる商売とは言えど、一時の感情だけで追い回されるのはいたたまれる。

 かつて「不倫は文化」と公言した芸人もいた。文化かどうかはさておき、刑法的犯罪ではないことだけは確かで、大衆に向かって謝罪する必要はない。「ご迷惑を・・・」がお決まりの謝罪だが、だれに迷惑がかかったのかと言えば、本来はせいぜい家族だけのはずで、出演映画、CMなどに迷惑をかけているのは、他人事の騒動に関心を持ち、イメージを勝手に落として騒いでいる我々外野の者に他ならない。

 不倫をしたことによって、本人の芸の質が落ちるわけでも、商品が劣化するわけでもない。制作や会社が倫理や感情を慮り自粛をする。それが当事者の責任になる。我々が無関心になれば、映画も、CMも何事もなく流れていくだけなのに。

 さらに言えば、結婚報道にあれほど関心を示す必要があるのか、結婚を見守ったから、不倫が悪、離婚が悪、となるくらいなら、結婚報道に関心を持たなければいい。

 一方で犯罪を犯したときの対応はどうかと言えば、当人に何らかの損害が行くのは当然ではあるが、個人の仕事以外、例えば、切り貼りのできない映画など、まで取りやめてしまうのはどうなのか、これも実は、映画そのものの質が落ちるわけではなく、我々の割り切り次第なのだろう。その映画が役者の転機になることもある、他の役者にすれば、ただの迷惑な話である。

 関心を持つからメディアはエスカレートする。今や週刊誌は暴露合戦。余計に傷口を広げエンターテインメント化し大衆を煽る。彼らも商売。こちらが求める限り進む。

 芸能界の事件事故をに関心を寄せる時には我々見る側も節度を持たないと、あるいは当事者以上に損害を出している場合もあるのだろう。

 

無・関心力

「〇〇力」自己啓発によく使われる。「行動力」「決断力」著名では「聴く力」など一時期「力」を付けることが流行ったこともあった。これらすべての源にあるのは「関心」。関心がないことは何も動かない。実は犯罪も関心の一つ。無関心では起こらない。

 昨今のSNSの誹謗中傷もその一つで、無関心に傷つけているといわれるが、誹謗中傷をすること自体、その人、その事柄に関心があるから書き込む。動機はどうあれ、何かに関心を持ちから起こる。「誰がどうした」に対して「ふーんどーでもいいよ」で終われば何も起こらない。

 これだけ情報が行き来する現代社会で、すべての事柄に関心を持つことはできない。関心を持つことがすべて良い方向に向かうわけでもない。無関心も時には必要なのかもしれない。そんな独り事を綴る。

自助とはなにか公助とは何か

菅内閣に代わりスローガンのように使われる自助・共助・公助。それではそれぞれがどんな意味合いを持つのだろうか。

公助・・公的な助け・・・国、県、市など行政

共助(互助を含め)・・お互いの助け・・・地域、市民、国民

自助・・自分の助け・・自分

災害に当てはめると、まず自分自身の身の安全を守り(自助)、地域やコミュニティといった周囲の人たちが協力して助け合う(共助)。そして市町村や消防、県や警察、自衛隊といった公的機関による救助(公助)となる。

この例では「自分の身は自分で守るのが基本、だからまずは自助」ということになる。

 公助は大きな力を持つが、平等でないとならないのでどうしても対応に遅れがあるし、ケースごとの細かいところまで目が届かない。かわりに共助では、地域のコミュニケーションの中での助け合いなので、ケースにあった支援が迅速に可能となる。

 ここで重要なのは「できることを、できるところがやる」ということで、「公助できないことは自助・共助で」の意味である。少なくとも「公でやらなければならないことを、自助・共助に押し付ける」ことではない。

 裏返せば「自助・共助でやれることを公助に頼ってはいけない」ということにもなる。公助を受けるということは、いくらかの制約も付く、自助・共助でやることはそれだけ自由度も高い。自由社会の国であればあるほど、自助・共助を高める必要もあり、これを見守りながらセーフティネットとしての公助が機能することが望ましい。

  昨今は緊縮財政のため、必要な公助までを削り、自助・共助に変換しようとする思惑で、言葉だけを使われているの風潮があることの危惧がある。

見たものをそのまま

 インスタグラムでよくお目にかかる幻想的写真には絶対に目には映らない光景が写っている。代表的なものが星空に何かを絡ませた写真。必ずと言っていいほど周期を描いている。北であれば円を描くように撮れる。技術的には三脚に固定し30分以上露光する。周囲の建物などは別撮りして合成することもある。デジタルの発達によって私たちの目ではありえない光景を作ることができる。

 これと似たような写真に滝を撮ったものがある。これもスローにして撮ると流れが見える白滝になる。白く色づくまで見えないが、水の切れ間のない流れは、日常目にする。鉄道では二種類ある。鉄道自体が流れて見えもの、鉄道は止まって背景が流れるもの。後者は流し撮りと言って鉄道にピンを固定し、おなじ速度でカメラを振ると、背景のみがブレ、いかにも力強く走っている図になる。運動会で使われる技術。流し撮りはは客観的には見えない世界でも、主観的、つまり走ってる当人や車内から見える風景としてこれも日常ある風景なので上にあげた写真の意味合いとは少し違う。

 いずれの写真にしてもパソコンソフトで加工をすれば、より幻想的な仕上がりにもなるが、ここまでくると作画の比率のほうが高くなるように思え、純粋な写真なのか疑問に感ずる。デジタルフォの分野としては確立されたもので否定はできないが、編集はトリミングと色合いの微妙な調整にとどめたいと思っている。

 日常に見えない風景が写真として成立しないというわけでないが、カメラの技術や編集の技術で、かけ離れた色や幻想風景を創ることに多少の違和を感じる。

 

 

長崎の夏 広島の夏 日本の夏

 日本の夏と言って、蚊取り線香を扱うわけではなく、長崎、広島と続けば間違うこともなく、過の大戦。そして原爆投下、敗戦について。

 今年75年を迎える夏の両式典は、コロナ禍にあり、例年より参列者も少なくして行われた。国の最高責任者である内閣総理大臣は当然の臨席、挨拶を読み上げたが、両式典の文言が同じと騒がれている。

 それでは広島、長崎で何を変えればいいのか、何が違うのか。戦没者の数、原爆の種類と性能といったものほかに何が異なるのだろう。場所が違えど人の命の重さに変わりはない、遺族の苦しみに変わりはない。文面の違いでどちらを重く見ているかを判断するべきではない事をなぜ騒ぐのか。

 総理はあくまでも来賓で、この両式典においての主催ではない。国としては終戦(敗戦)記念日において、全ての御霊に哀悼の意を捧げ、不戦の意を新たにすることが全てであって、個々の式典で個別の思い入れを述べることの方が、問題になりそうなものである。

  似たような文面を指摘されることは過去にもないわけではない。当然そうなるはずなのである。ただ今回の背景は、数々の不祥事への対応、国会軽視ともいえる言動など、昨今の総理に対する不信感の裏返しであることは一因と言える。

マスクより大事なこと

 新型コロナいよいよ第二波か、などと緊急事態解除やGOTOトラベルで、感染者が増えたと騒いでいるが、当然のことで、感染者が減ったから解除できたわけではなく、閉じ込めたから、表面に出る数が減っただけで、根本的対策ができたわけではないのだから、動き始めれば又戻るだけ。さらに政府のお墨付きを与えたようなのだから、大手を振って動き回る数が増えれば感染も増える。慌てて押さえるにしても、今まで自粛ものとに自我を押さえつけていた分、反動が大きい分押さえつけが持つかしくなる。もちろん経済的にも限界がある。

 何が効果的なのか、そもそもそれ程恐ろしいものではないなど、専門家によっても見解が違う。要するにわかってない、あるいは統一見解ができないということか、政府の動きも二転三転信頼性がない。わかっていることは手元に入るワクチンはない、かかって初めて治療ができる。医療体制も不足なら生死は時の運

 特に投げやりに言っているわけでもないがこれが現状長く続けばいつかは自分がかかる番が回ってくる。いかにワクチンまでを耐え忍び続けるか

 今のところの決定的な対抗策、予防策がない中でマスク、うがいよりも大切なことがある。非常にシンプルで
 「生活のリズム、適度な睡眠、適度な運動で健康な身体を維持し、コロナウイルスを体内に入れない、定着させない体を作ること」
 どんなにマスク、うがい、消毒をしようが基礎体力がなればウイルスを取り込む。例に出すのは申し訳ないが、死亡の大半は、特定疾患、不摂生、高齢など体力の弱い方が多いことも事実。

 まずは何より基礎体力。経済活動、余暇活動含め人間らしい活動は長くは止めれないのだから