長崎の夏 広島の夏 日本の夏

 日本の夏と言って、蚊取り線香を扱うわけではなく、長崎、広島と続けば間違うこともなく、過の大戦。そして原爆投下、敗戦について。

 今年75年を迎える夏の両式典は、コロナ禍にあり、例年より参列者も少なくして行われた。国の最高責任者である内閣総理大臣は当然の臨席、挨拶を読み上げたが、両式典の文言が同じと騒がれている。

 それでは広島、長崎で何を変えればいいのか、何が違うのか。戦没者の数、原爆の種類と性能といったものほかに何が異なるのだろう。場所が違えど人の命の重さに変わりはない、遺族の苦しみに変わりはない。文面の違いでどちらを重く見ているかを判断するべきではない事をなぜ騒ぐのか。

 総理はあくまでも来賓で、この両式典においての主催ではない。国としては終戦(敗戦)記念日において、全ての御霊に哀悼の意を捧げ、不戦の意を新たにすることが全てであって、個々の式典で個別の思い入れを述べることの方が、問題になりそうなものである。

  似たような文面を指摘されることは過去にもないわけではない。当然そうなるはずなのである。ただ今回の背景は、数々の不祥事への対応、国会軽視ともいえる言動など、昨今の総理に対する不信感の裏返しであることは一因と言える。