今 高瀬舟を読み返す

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の女性から依頼を受けて薬物を投与し殺害した事件。容疑者二人は殺人の容疑者とされる。人を殺すという意味においてはその通りであるが果たして通り一遍の殺人事件として扱えるものだろうか。

 ALSは筋肉が萎縮し自分の支配によって動かせる肢体がなくなっていく難病である。患者は51歳。この先生きることへの希望がどれだけあったのかを知るすべはない。 ただ漠然と死にたくなった類いとは違う。そして患者の女性からの転医と安楽死の依頼があった事実はあるようだ。

 患者の親は容疑者に対し許せないという。これは親族感情としては当然。

 日本ALS協会恩田さんは、「ALSとは適切な介助者チームとテクノロジーの力を借りれば乗り越えられる病気」「死にたいという患者に生きる選択肢を示せなかったことは極めて遺憾」と寄稿した。これも又正しい。

 これを書きながら森鴎外高瀬舟」を聞き直している。高瀬舟は罪人を島に送る船である。そこに乗っている男の罪は弟殺し。病弱の弟が自殺を試み失敗して苦しんでいるこれを兄が殺した罪。このまま生かしておいても苦しみ抜いて死んでいく弟から殺してくれと頼まれる。罪を罪として淡々とする兄と、これがどこまで罪といえるのかを自問する役人の物語、現代の安楽死をも問うている。森鴎外も医者である。

 本人の思いはどうであったか、これからの人生をどう感じていたか。医者は「生」への思いを「死」に誘導させてしまったのか。この件においては謝礼が先に振り込まれている。金のためだけの犯罪なのか。彼女に、あるいはこの難病と闘う患者全てにこの社会はどこまで温かくなれるのか。「安楽死」は悪なのか、又それを幇助するものは死の商人なのか。

 高瀬舟で役人が自問自答の末上役、つまり法廷に委ねるほかないのだが、ケースによって、社会が生きる希望を与えられるまでは、是とはしないながらも黙認ありえるのかもしれない。

芸術を志す者の才能とは

 私の写真は才能がないと思っている。上手い下手を決めるものは、実は技術的なものは些細なことに過ぎなくて、大半は感性できまるものだと思っている。「何を撮りたいか」「どうして撮りたいか」それは「何を感じ」「何を伝えたいか」これらがしっかりある写真こそが上手い写真と言えるのであって、いくら技術でカバーしてもないものは薄っぺらい写真になり、あるものはたとえ技術は足してなくても、伝わるものがある上手い写真といえる。

 ある意味それは撮り手の人生経験の厚みによるものでもある。若いから少ないものでもなければ、年を重ねたから豊富というものでもない。社会と触れ合い、いかにものを考え自分自身の感性を磨くか。これが一枚の写真を産み出す才能、センスとなる。

 音楽家であれば、曲に秘められた感情をどう伝えるか、感情を伝えるためには、体験から呼び覚ますところが多い。画家の作風イメージは日頃の経験、思想の積み重ねであったりする。

 「ただ演奏する」「ただ描く」だけでは伝わる物がないごとまねになる。常に感性を磨く、芸術家の永遠のテーマになるのだろう。

それぞれの利を生かした政策

 アベノマスクの配布が終わり半月以上、巷でマスク活用者を見ることは少ない。市販のマスクか手作りマスクをかけている。そそして夏、熱中症対策では必要以上に使用することなかれ、と。果たしてアベノマスクは必要だったのか?

 市民活動をする場合、行政・企業・民間が協働することがある。大事なのは三者の特性。行政は信用信頼、企業は資金力、民間は機動性。裏を返すと行政は平等が求められるゆえに機動性が低い。その点お墨付きの信用は薄いが、平等性が求められるわけではないので、ピンポイントで動くことができる。ただし資金がないので、企業の助けなどを必要とする。

 アベノマスクの全国一律配布が本当に必要だったかを検証するにあたり、この3者の役割分担に照らし合わせると、必ずしも国がやるべき政策だったか疑問になる。

 各世帯二枚に限定する。ということは1人暮らしも2枚、5人暮らしも2枚。大人も子供も同じ大きさ。これが行政の平等。これを各自治体や企業への指示や助成にして自由に作らせ、地域にあった配付にできたらどうだったか?

 現状でもわかるように自作マスクが出回るようになった。材料、創り方、資金の補助があれば、市民レベルでできることではなかったか。それよりも、その分の資金を使い個人ではできないワクチン開発や機器の導入といったところに投入すべきではなかったか。

 無駄遣いとは言わないが、国民の力を信じた動きに欠けた気がする。

 

コロナ過のミュニティーツール

 「17Live」「ポコチャ」。配信者がいて、リスナーがいて、双方向の会話が成り立つコロナ過で覚えたコミュニティーツールである。配信者は用意されたイベントと言われるものに参加、リスナーはそれを応援する。より応援をするためには課金が必要になる。あくまでも自由意志ではあるが。

 そう言えはコロナのコの字も予想がつかなかった数年前。同様のサイトを訪れたことがあるが、どちらかと言えば若年層の出会い系、或いは課金商法サイトのイメージがあったが、このコロナ過で、プロの音楽家も入るなど様変わりはしているのかもしれない。

 そんな彼らの目的は何か。知名度、収入、暇つぶし(まさかそれはないだろう)。只管雰囲気づくりを重視するルーム、イベント上位に余念のないルーム等、目的によっても利用の仕方が違ってくる。何が正しいとは言い切れないが、リスナーとしては、コンサートなどで演者と客の距離感でしかないものが、会話ができ覚えてもらえるのはある意味魅力なのかもしれない。

 

 

 

 

自由とは何か平和とは何か

 コロナ過の外出規制の中でも自粛という名のもとに自由が担保されている国。簡単なようで難しいことを行える日本人の気質を讃えたい。

 自由とは何か、辞書には総じて「他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること」と書かれている。他者から干渉されず、自分を通すことができることが自由であることは間違いないが、その先、というか裏を考えたことはあるだろうか。

 「他者から拘束を受けない事」は「自分も他者を拘束しない事」。「自分の思うままにふるまうことができる」ならば「他者も思うままにふるまうことができる」ことになる。つまり「他者の自由を奪わない限りの中にこそ自分の自由がある」ということ。ゆえに、自粛・自重・遠慮・譲り合い・或いは一時期有名になってしまった忖度など、自らを律することが必要となる。

 自由をはきちがえるから独りよがりな誹謗中傷がおき、身勝手な殺人事件がおき、戦争がおき、それを抑えるための規制・罰則が作られ、拘束になり、そのたび自由が減っていく。

「自分がされて困ることは、人も困る」「自分が一歩引くことで、互いの自由度が広がる」このようにして、自由を自らの手で守ることができるのが日本の美徳とするところなのだろう。

 平和は自由の延長線上ある。戦争をしない状態だけを平和とは言わない。自由が担保された、不自由のない生活をおくれる社会を平和というのだとしたら、基本は一人一人の自由を自ら律しながら守ること、一番大切な人の笑顔を守ることから始めることはできないだろうか。

 

 

自分の正義を疑うこと

 最近顕著になているのがSNSを始めとした揚げ足取り、誹謗中傷合戦、チクリ合戦。自由に書き込めるだけに、顔をさらさずに、とことん自分の手中を書きなぐっていく。彼らは立ち止まることをしない。彼らにとって自分の行いは正義だからか。

 ラジオでの失言に対しては、人格否定、降板署名。テレビでの事件ではとうとう自殺にまで追い込むこことなった。

 新型コロナウイルス感染防止の自粛のさなか、営業中の店舗への誹謗中傷、マスクをかけてない人への暴力などが起きている。

 その発言、行動の裏には、人それぞれ、置かれた立場、思想がある。勿論すべてが正しいとは限らない、否定されて当然の言動はある。逆に言えば、全てが間違い、否定避けるべき言動でもない。仮にすべてが否定されるべきものであっても、集団リンチされるべきことではない。

 「自分の正義は本当に正しいのか」「正しいとしてもこの言動は行き過ぎ正義にならないか」立ち止まって考える必要は誰にもある。

 

 

 

影響力ゆえに立ち止まる

 芸能界からのメディア・SNS発信でお騒がせがつついています。

 一つは某ラジオからの「コロナが収束したら、もの凄く絶対おもしろいことある(中略)苦しい状態がずっと続きますから(中略)美人さんがお嬢やります(中略)稼がないと苦しいですから(中略)だから今、我慢しましょう」発言。

 とあるリスナーから寄せられた投稿ネタに対しての返答。投稿者に何らかの意図はなく、ただ「風俗に行けず寂しい」と呟いただけで、「俺もそう」などと簡単に返せばなんともないやり取りを、彼特有のサービス精神を付け加えたところ、彼の中に潜んでいる女性に対する蔑視、卑下する感覚が見えてしまったのだと思います。

 自分が持っている倫理観が、世間的に正しいのかは、この問題にかかわらず常に自問自答するべきなのだろうと思います。その上で、自分が今どの位置にいて、どれだけの影響力を持つかを常に客観的に分析しておく必要があります。その上で言葉を道具にするプロですから、仮にずれた人生観を持っていたしとても、本心とは別に、その場の空気と倫理観を保つ言葉のチョイスは、とっさにおいてもできなければならないでしょう。

 ラジオ・テレビ共に、生放送でとっさに口をつく言葉は本音としてそのまま発信される怖い世界です。

 もう一つは「検察庁法改正案に抗議します」とSNSにツイートしたところ、ファン同士で意見が分かれ争いになったのが悲しくて、ツイートを取り下げたことです。個人の意見として想いを発信すること自体には何ら問題はなかったたはずです。

 ただ、SNSの性質として、どういった意見を持った人が見ていて、何を発言してもいいこと自覚し発言すべき(歌手が政治を語るな投稿は誹謗中傷なのでこれに当たらない)でした。彼女を好きになったからといって思想全てを好きになったわけではないのですから。

 この二つに共通することは、「自分の影響力を冷静に分析できているか」「言葉を校正せず垂れ流しにしてないか」「メディア、SNSの性質を理解しているか」ということ。便利な世の中、手間をかけない世の中になる分、発信する時には、冷静・慎重・責任を忘れないことが必要なのでしょう。